カテゴリ:自伝



2022/07/03
友達
夏の暑い日には、純粋に自分のことを心配してくれる友達がいたことを思い出す。中学生の時、山で道に迷った時の出来事。
2022/06/24
企業の研究所に就職したわけ
大学で博士号を取得後、一般企業に就職した。国の研究機関、大学で研究を続ける道もあった中で、なぜ企業を選んだのか。疑問に思う方も多いので、書き残しました。
2021/12/05
実は京都生まれである。関東に就職するまで、京都市上京区、北野天満宮の近くに住んでいた。北野天満宮はお参りに行くところではなく、セミを取ったり、夏休みの宿題の写生に行く場所。また、石田三成に仕えた島左近のお墓がある立本寺もかなり近く、境内で野球をして遊んでいた。ボールがお堂に当たることもあり、今思えば罰当たりなことをしていたと思う。京都の人は寺社仏閣や、歴史が動いた場所が身近にありすぎて有り難みが理解できない、とよく言われる。全くその通りである。 京都出身と分かった途端によく言われることの一つは、京都人は嫌いだ、ということである。京都人は何を考えているのかわからない、「ぶぶ漬けでもどうですか」が「そろそろ帰って下さい」という意味だと理解できるわけない、今も京都が都だと思っていてお高くとまっていいる、というような非難である。ぶぶ漬けのくだりについては、生まれてこの方、言ったことも、聞いたこともない。京都人のほぼ100%が、私と同じように、ぶぶ漬け攻撃を誰かにしたことも、受けたこともないと思う。 よく言われることのもう一つは、京都出身なのに京都大学になぜ進学しなかったのか、という質問である。これは出身大学を聞かれ、他の国立大学の名前を出した瞬間によく言われることである。京大に進学しなかったのではなく、したくても出来なかったのである。当時、数学が得意でなく、受験の時にかなり困った。大学受験の頃は、まだ貧弱なニューラルネットしか脳内に形成されておらず、考える能力が不足していた、と勝手に過去の自分を理解している。つまり、脳が早熟ではなかったのだと、自分を納得させているのである。アラサーの頃に、ようやく脳内のニューラルネットワークが充実したと自分に言い聞かせている。 京都市は盆地なので夏は暑く、冬は寒い。また、大きな駐車場がある飲食店が少ないなど、欠点を挙げれば沢山ある。まあでも、市内から近くに御室や北山などの自然があり、学生の街ならではの小洒落た店があったりもするので、そこそこ楽しい街なのではと思う。もう一度住みたい場所である。
2021/08/28
トレッキングが趣味である。コロナ禍になってから行く回数がめっきり減ってしまったのですが。そもそもトレッキングを始めようと思ったきっかけは、アメリカのグランドキャニオン国立公園である。約10年前、グランドキャニオンに旅行した時に、キャニオンをコロラド川まで降りていくトレッキングコースがあり、谷底にファントムランチという宿泊施設があることを知った。そのコースやファントムランチが凄く魅力的に見えたのと同時に、ファントムランチに到達するのに行き(下り)は4〜6時間、帰り(上り)はその倍の時間を要することがわかった。これぐらい時間のトレッキングになると、やはりそれなりの経験がないと難しい。なので、トレッキングを始めたというわけである。ちなみに、ラバに乗ってファントムランチに行くツアーがあり、歩かないという選択もできる。ただし、ツアーに参加するためには英語が話せないとダメです。 いずれにせよ、グランドキャニオンへの旅行によって、急にトレッキングに目覚めたわけである。以降、10年にわたり様々なトレッキングスポットに出かけたわけであるが、一番印象に残っているのは尾瀬である。水芭蕉などの湿原に咲く植物が綺麗とか、木道が素晴らしいとか、そういうことで印象に残っているのではない。 2011年の7月に尾瀬にトレッキングに行った際、大雨に遭遇した。山小屋に宿泊する予約をしていたので、雨の中を山小屋まで移動、宿泊の翌日はさらにひどい雨に見舞われた。山小屋のスタッフに、「帰るならば早く戻った方がいい」、と言われたので雨の降りしきる中、急いで尾瀬ヶ原の入口にあるビジターセンターまで戻った。ビジターセンターに到着して休憩していると、今度は「尾瀬に宿泊でなく、帰る方は今すぐに帰路についてください」、とのアナウンス。至急、荷物を再び担いでビジターセンターを出発した。ビジターセンターからバスの発着場所(鳩待峠)に戻る途中、増水して川幅が2〜3mとなった小川を2箇所、横断しなければならなかった。増水していたが、小さい頃から自然の中で遊んでいた自分はさほど恐怖は感じず、意外と簡単に横断できた。一方で、一緒に行動していた嫁さんは足がすくんでしまい、横断するのに補助が必要だった。また女性は男性よりも体重が軽いので流されやすい。自分基準で行動できる、できないの判断をしてはダメなことを、この時に学ぶことができた。 また、3年前に母親を亡くしたが、危篤を知らせる電話を尾瀬で受けた。尾瀬でも徐々に携帯電話の電波が入るようになってきている。尾瀬ヶ原の真っ只中(見晴)で危篤の電話を受け、そこから帰宅の途につき、最終の新幹線で地元に向かった。その新幹線で殺傷事件に遭遇するという、とんでもない一日を過ごしたことは一生忘れないと思う。尾瀬は素晴らしいトレッキングスポットだが、私にとっては他の出来事の印象が強い場所になってしまった。でも、もちろん、今後も定期的に訪れたいと思って場所の一つである。
2021/08/07
大学時代、金曜日の夜に居酒屋やクラブをはしごして朝まで遊ぶことがあった。レゲエ音楽がかかるクラブに行けば、そこでしか会わないクラブ友達がいて、難しいことを考えずに楽しい時間を過ごすことができた。ある金曜日に大学の友人から飲み会の誘いがあり、朝まで遊ぶつもりでその飲み会に参加した。どんな飲み会だったのか覚えていないが、いつもであれば1軒目を出た後は「さあ、次の店に行こうか」 となるのだが、その時は皆、帰っていってしまった。しかも、自分が帰る方面の終電は既に終わっていた。 仕方がないので、まず、クラブ友達がいるかもしれないクラブに行ってみた。すると、その日に限って友達はおらず、クラブで遊んでいる人も凄く少なかった。しばらくはそのクラブで時間を潰していたが、ほぼ人がいないクラブに、朝までただ居続けるのは無理だった。結果、タクシーで帰るという決断をした。ただし、帰宅するには自宅は遠すぎたので、自宅よりはかなり近い大学の研究室に戻ることに決めた。それでも大学までのタクシー料金には満たない金額しか持っていなかったので、とにかく行けるところまでタクシーに乗り、そこからは歩いて大学に向かうことにした。 タクシーに乗車して運転手さんに、「大学に向かって下さい。ただ、お金が○円しかないので、その金額になったら降ろしてください。」と伝えた。深夜料金ということもあり、あっという間に伝えた金額に達した。「あ、この辺りで降ろして下さい。」というと、「こんな真っ暗で誰もいないところに降ろすことはできない。君は真面目そうに見えるから、とにかく大学まで乗せていく。メーターも戻すから、空車と思われないよう助手席に乗って。」と言われた。その後、大学に到着するまで、運転手さんと色々と話したと思うのだが、その内容は覚えていない。 大学に到着後、研究室に到着するまで泣きながら歩いた。ひとりぼっちになった後に触れた人の優しさや誠実さ、しっかり働いている人がいる中で自分は世の中に何の貢献もできていないこと、などの思いが頭の中を駆け巡って涙が出てきた。そのタクシーの運転手さんにはいつか恩返しをしないといけない。この出来事以降、運転手さんの名前と会社名のメモ書きを持ち続けている。もう20年が経ってしまった。真面目に生きている、という点では恩返しはできているかなあ。
2021/07/10
大学受験に失敗し、予備校に行くことになった。この予備校時代、自分で言うのもなんだが、朝から晩まで本当によく勉強した。全ての試験が終了するまで休んだのは元旦だけだったと記憶している。予備校時代、沢山の思い出があるが、予備校の先生については次のエピソードをよく覚えている。...
2021/06/26
高校でも硬式野球部に入部し、野球を続けた。中学校で部活を選択する時、自分は野球しかできないという思い込みで野球部を選択して失敗したと感じていたので、高校では急がずに部活を選択した。どの部に入ろうかいろいろ考えているうちに、野球が好きかもしれないと感じはじめ、最終的に野球部に入部した。...
2021/06/13
小学校から高校まで野球を続けた。一歳上の兄が野球をやりたいと言って少年野球のチームに入ったことがきっかけである。親が兄の練習についていくので、自動的に私も練習について行くことになり、「あなたも野球をやるんでしょ」となし崩し的にチームに入団したのである。こんな感じだったので、少年野球チームでの練習も試合も全く楽しくなかった。むしろ、苦痛で仕方がなかった。 中学校に入学し、野球部に入った。テニス部、卓球部、陸上部など、いろいろ選択肢がある中で「でも、自分ができるのは野球だけだしな」と勝手に思い込み野球部に入った。今思うと、この思い込みが間違いだった。楽しいと思って野球をやっていなかったので、技術的にも大したことはなく、なのでレギュラーになれなかった。中学校の部活ではありがちな話だが、顧問の先生がいない時は真面目に練習をしない部員もいた。ただ、自分は練習はきちんとしないと嫌な性格だったので、顧問の先生がいなくても真面目に練習をしていた。それを見ていた他の部の顧問の先生が授業中に「野球部で一番上手いのは○○やな、でも、一番練習をしてるのはQポンや」と言ってくれた。本当に嬉しかった。ただ、一生懸命練習をしていたわけではなく、サボるのが嫌だっただけなんですけどね。良い思い出はこれぐらいですね。 レギュラー陣が試合後に「今日は○打数○安打だった」という会話を楽しそうにしている光景を見るのが苦痛だった。補欠はいつも0打数0安打だから。いずれにせよ、好きなこと、やりたいことをやらないと上達しない、その典型例だと今は思う。
2021/05/29
春になり、就職活動の時期になると毎年、自分は何故、今働いている会社に採用されたのだろうと思う。研究者の採用面談では、自分の取り組んでいる研究内容を当然のように聞かれる。私も、どのような研究に取り組んでいるのかを面接で聞かれたのですが、かなり大まかに研究の概要を回答したのみで、取り組んでいる研究の本当に難しいポイント※については説明をしませんでした。正直に言うと、説明してもこの人達には絶対に理解できないだろう、という生意気な気持ちが心の中にありました。若気の至り、というやつです。ただ今思えば、説明スキルに乏しく、理解してもらえる自信が無かったから、説明できなかっただけでは?という気もします。 いずれにせよ、研究の内容をちゃんと説明していないのに、合格したのです。当時、かなり生意気だったので、元気枠、体育会系枠(高校時代に野球部に所属)で採用されたのかもしれませんね。会社に入ってからも、学生時代の研究内容について一回も説明を求められていません。なので、何を期待して私を採用したのか、未だに不明というわけです。 ※ちなみに、学生時代は主観的な知識を導入することで最適設計を高速化する研究に取り組んでいました。設計に関する主観を含めるために超パラメータを導入し、ベイズ統計に基づく方法で超パラメータを決定していました。今は理解されると思いますが、私が取り組んでいたのは1990年代なので、説明して理解してもらうのは困難だったと思います。