2023/10/14
親ガチャ
「親ガチャ」という言葉を聞くと、「確かにそうだよなぁ」と感じる人が多いのではと思う。「親ガチャ」に対する自分なりの考えを書きました。
2023/06/02
キャリア
キャリアという言葉を聞き始めたのは、会社で上司と面談をするようになってからである。入社してから数年も経つと面談の度に、「今後のキャリアパスをどう考えているのか」という質問を受け、定年まで勤めることを前提としたキャリアプランを宣言する羽目になった。この時に抱いた違和感について、今思うことを書きました。
2022/09/24
挫折をバネに
少年野球から高校の硬式野球部まで、野球を続けたが最終的には挫折。この悔しさを忘れず、前向きな力に変え、研究者、エンジニアとして社会に貢献したい。
2022/09/03
思い込み
世の中の風潮、受けた教育、親の考えに大きく影響を受けて生き方を選んできた、という思いが強くある。過去の風潮、教育、考えにとらわれず、自分の考えに従って残りの人生を歩みたい。
2022/07/03
友達
夏の暑い日には、純粋に自分のことを心配してくれる友達がいたことを思い出す。中学生の時、山で道に迷った時の出来事。
2022/06/24
企業の研究所に就職したわけ
大学で博士号を取得後、一般企業に就職した。国の研究機関、大学で研究を続ける道もあった中で、なぜ企業を選んだのか。疑問に思う方も多いので、書き残しました。
2022/05/13
男盛り、女盛り
男盛り、女盛りはいつなのか、についての自論です。
2022/02/27
大学時代に所属した研究室の教授が私の恩師である。当時の私は根拠の無い自信に満ち溢れた生意気な学生だった。にも関わらず、研究室で色々と自由にさせていただいたことに感謝している。研究内容のこと、深夜までの研究で大学に泊まること、研究室の先輩後輩と大学のグラウンドでサッカーをすること、連れだって銭湯に行くこと、外食に行くことなど、うるさく注意されることは無かった。特に研究内容に関して、否定的なことを言わず、常に前向きなアドバイスをいただいたことは、自分の現在の研究スタイルに大きく影響している。常に前向きな言葉をいただいたおかげで、ポンさんは今も何の躊躇もなく、自由闊達に、新たな技術分野にチャレンジできている。 未熟な学生の研究のアラを探して、否定的なことを言うのは簡単なことだったはず。会社で若手や中堅の研究に対してコメントを言う機会が多くなった今、否定的なコメントが簡単なことはよくわかる。アラなんて、いくらでもある。研究者の卵だった当時、やることなすこと否定されていたら、チャレンジを恐れ、萎縮してしまい、守備範囲の狭い研究しかできない研究者になっていたと思う。当時、複合材料の力学やFEM(Finite Element Method)に加えて、最適化法、ベイズ統計、ニューラルネットワークなどについて自由に学び、研究成果として認められた。そのおかげで、材料力学や計算力学分野に加えて、情報科学で昨今議論されていることにも何とかCatch upできている。時代遅れの研究者にならず、現役の研究者として仕事ができている。 大学の教員の全てが恩師のような先生ではなかった。ポンさんが選択した専攻は、元々、溶接技術に関する研究で名を馳せた専攻である。したがって、溶接に関する研究を続けている教員も多くいて、溶接に関する授業もあった。溶接関連の実習の中で、「君らはどうせ将来、溶接に関する仕事をすることになる。就職して自動車のエンジンを設計するなんてことは君らにできるはずがない」と言い放った教員がいた。実際、この教員が言ったようなことは決してない。溶接技術を源流とする専攻の出身であっても、設計者になることはできる。 また別のエピソードだが、ポンさんがある計算式を使って研究を進めていた時のこと。ある教員に研究内容を説明した際、「その式は間違っているよ。だからその研究内容はおかしいと思う」という指摘を受けた。ポンさんが「計算式のどこが間違ってますか」と質問すると、「どこかはわからないが、直感的におかしいと思う」と回答された。恐らく、頭の悪い学生が適切な計算式を使ってまともな研究ができるわけがない、という先入観をその教員はもっていたのだと思う。このように若者の思いや考えを何の根拠もなく否定する教員もいた。その中で、常に前向きなアドバイスをくれる恩師と出逢えたのは本当に幸運であった。実際、その恩師から沢山の優秀な研究者が育った。ポンさんはそのうちの1人である、とは流石に言いづらい。
2022/01/08
アメリカのミシガン州アナーバー(Ann...
2021/12/05
実は京都生まれである。関東に就職するまで、京都市上京区、北野天満宮の近くに住んでいた。北野天満宮はお参りに行くところではなく、セミを取ったり、夏休みの宿題の写生に行く場所。また、石田三成に仕えた島左近のお墓がある立本寺もかなり近く、境内で野球をして遊んでいた。ボールがお堂に当たることもあり、今思えば罰当たりなことをしていたと思う。京都の人は寺社仏閣や、歴史が動いた場所が身近にありすぎて有り難みが理解できない、とよく言われる。全くその通りである。 京都出身と分かった途端によく言われることの一つは、京都人は嫌いだ、ということである。京都人は何を考えているのかわからない、「ぶぶ漬けでもどうですか」が「そろそろ帰って下さい」という意味だと理解できるわけない、今も京都が都だと思っていてお高くとまっていいる、というような非難である。ぶぶ漬けのくだりについては、生まれてこの方、言ったことも、聞いたこともない。京都人のほぼ100%が、私と同じように、ぶぶ漬け攻撃を誰かにしたことも、受けたこともないと思う。 よく言われることのもう一つは、京都出身なのに京都大学になぜ進学しなかったのか、という質問である。これは出身大学を聞かれ、他の国立大学の名前を出した瞬間によく言われることである。京大に進学しなかったのではなく、したくても出来なかったのである。当時、数学が得意でなく、受験の時にかなり困った。大学受験の頃は、まだ貧弱なニューラルネットしか脳内に形成されておらず、考える能力が不足していた、と勝手に過去の自分を理解している。つまり、脳が早熟ではなかったのだと、自分を納得させているのである。アラサーの頃に、ようやく脳内のニューラルネットワークが充実したと自分に言い聞かせている。 京都市は盆地なので夏は暑く、冬は寒い。また、大きな駐車場がある飲食店が少ないなど、欠点を挙げれば沢山ある。まあでも、市内から近くに御室や北山などの自然があり、学生の街ならではの小洒落た店があったりもするので、そこそこ楽しい街なのではと思う。もう一度住みたい場所である。

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